魯迅の書簡
1~8.書簡
1.周樹人の蒋抑卮あて書簡から
2.楊霽雲あて書簡から
3.楊霽雲あて書簡から
4.曹聚仁あて書簡から
5.増田渉への書簡
6.山本初枝あて書簡
7.増田渉あて書簡
8.増田渉あて書簡
9~15.著作
9.「吶喊・自序」
10.ロシア語訳『阿Q正伝』序および著者自序伝略
11.「藤野先生」
12.「学界の三魂」
13.「魯迅自伝」
14.「連環画」弁護
15.「自伝」
1.周樹人の蒋抑卮あて書簡から
(1904年10月8日付)
拝啓 さきに江戸より一書を奉じましたが、すでにお読みいただいたことと存じます。
あれから仙台に離れ住み、又ここに二か月が過ぎました。
形の影にそぐわぬ如く、気持ちが落ち着かず、いよいよ所在無さを覚えております。
昨日思いがけず任克任君から「黒奴吁天録」【「アンクル・トムの小屋」のこと】一冊と手書きの「釈人」一編を送っていただきましたが、たいそううれしく、一日中読んで、とうとう読み終えました。
ご厚情まことにありがたく御礼の言葉もありません。
私は仙台の地にやってきて、中国の主人公たるべき意気込みから、相当にへだたってしまい、うらめしく思われますのは、中国での種々の出来事を新聞紙上で目にするのみであることです。
そぞろ故国を思い、将来を心配し、そこで、黒人が奴隷となっていった前車の鑑がかくも惨めであることを悲しみ、いよいよ嘆きが増すことであります。
聞くところによりますと、素民ももう日本に渡ったということ、このほか浙江人はたいへん多く、そう離れてもいませんのに、とんと会うこともできません。
ただ、日本の同級生で、訪ねてくる者がすくなからず、このアーリア人とつきあうことは、おっくうなことであります。
私の気持ちを慰めてくれますものはわずかに旧友の便りのみであります。
この数日間、日本人学生社会のなかに入って、ほぼわかりましたことは、思想、行為の点では、中国青年の上にはいないときっぱり言いきれることであります。
ただ、社交の点は活発で、彼ら日本人のほうが長じているいると言えましょう。
楽観的に考えますと、中国の始祖黄帝の霊も飢え嘆くことはないでありましょう。
この地はなかなか寒いのですが、昼間はいくらか暖かです。
風景はよいのですが、下宿はまったく劣悪です。
東桜館(東京での宿舎のこと)のようなところは求めようとしても絶対にできません。
いわゆる旅館にしてはいっこうに広くありません。
いま住んでいるところは月額たった八円です。
人通りが前にあり、西日が後ろから射します。
毎日食べさせられるのはいつも魚ばかりです。
いま、土樋町に引っ越そうと思っていますが、そこも、いいところと言うわけでなく、ただ、学校に近く、いくらかあたふたせずにすむというだけのことです。
物事は互いにくらべてみないと善し悪しがわからないものです。
今後、私は東桜館をユートピアと思い、貴臨館を華厳界と言ってもかまわないと思うでありましょう。
学校の勉強はたいそう忙しく、毎日息つく間もありません。
七時に始まり、午後二時に終わります。
受けている授業は物理・化学・解剖・独乙(独逸語)などの学でどれもみな早くすすみ、応接にいとまがありません。
組織・解剖の二科目の名詞はみなラテン語とドイツ語を併用しますので、毎日必ず暗記しなければならず、頭がとみに疲れます。
しかし教師の言うことはよくわかりますので、もし幸いに卒業できましたら、人を殺す医者にはならないであろうと自分で思っています。
解剖した人体も大体ひとわたり見ました。
私は自分が性すこぶる酷薄であると信じていましたが、解剖した人体を見た後、胸がむかつき吐き気がして、その形状が長い間目に焼きついて離れませんでした。
それでも、見終わった後、下宿に帰りますと、結構いつもどおりさかんに飯を食うことができて、我ながら捨てたものでもないと思っています。
学校の待遇はまあよいほうです。
校内の扱いは良くも悪くもないといったところです。
ただ、学費を納めに行きましたところ、断って受け取りません。
向こうが受け取らない以上、私は遠慮しませんでした。
その金は夕方になって時計に化け、私のふところに入りましたが、なかなか結構なもうけものでありました。
仙台は長雨が続いて、いま晴れたところです。
はるかに偲ばれる故郷はもうとっくに秋でありましょう。
学校の勉強は、暗記ばかり求められ、自分で思索することがなく、学び始めて間もないのに、頭がもう固くなってしまったようです。
四年の後にはおそらく木偶人形のようになってしまいましょう。
兄の耳はもうよくなられたことと思います。お大切に。
秋の気は厳しくご摂生を祈りあげます。
もしお閑のおり、ご教示をいただきましたら幸甚に存じます。
草々のお便りで、言うところを尽しません。
またお便り申上げます。
蒋抑卮長兄大人の進歩をたたえます。
弟 樹人 申す
八月二十九日(新暦の一九〇四年十月八日)
追伸:もしお手紙いただけます場合、日本陸前国仙台市土樋町百五十四番地【百五十八の誤り】宮川方にお送りくださいますようお願いいたします。
さきに訳しました『物理新詮』は、およそ八章から成っており、すべて清新であります。
ただ、そのうち「世界進化論」と「原素周期則」の二章だけ訳して中断しており、あと筆を握り訳すひまがありません。
これからさき、ひたすら丸暗記の、働きのない学問を修めるもに追われて、他のことに手が及ばぬことになり、残念でなりません。
2.楊霽雲あて書簡から
(1934年5月6日)
『浙江潮』に用いた筆名は、自分でも忘れました。
覚えているのは、一編は「?を論ず」(のちに雷錠と訳すようになりました)、
一編は「スパルタの魂」(?)です。
それに「地底旅行」も私が訳したとはいっても、改作で、筆名は「索子」、
あるいは「索士」です。だが、完結しなかったかもしれません。
現在では、わたしの最初の小説は「狂人日記」だといわれますが、最初に活字になったのは文語による短編小説で、『小説林』(?)に載りました。
それは、確か革命以前で、題目も筆名も忘れました。
内容は私塾で起きたことを書いたもの、、、
当時、『月世界旅行』というのがあり、これもわたしの編訳です。
三十元で売り、他人の名義になりました。
また世界史を訳したこともあります。一千字五角で、出版されたかどうか、いまだにわかりません。
3.楊霽雲あて書簡から
(1934年5月15日)
『小説林』のなかの古い文章は、おそらくは発見が難しいでしょう。
科学を勉強するつもりでいましたから、科学小説を愛好したのです。
しかし若いときの自惚れで、直訳しなかったのは、思い出すととりかえしのつかないことでした。
当時、『北極探検隊』を訳しました。
叙事は文語、会話には口語をそれぞれ用い、蒋観雲先生に託して商務印書館にもちこんだところ、採用にならなかったばかりか、でたらめな訳し方だといって、編集者にこっぴどく罵られました。
そのあと、あちこちに送っては送り返され、どこでも断られたあげく、原稿も紛失したのです。
それを拾って出版した人は、今日までいないようです。
4.曹聚仁あて書簡から
(1934年4月30日)
西洋医学を学ぶには、基礎科学をみっちり覚える必要があり、少なくとも四年かかりますが、それでも胚芽にすぎず、それからあと何年も実習を積まなければなりません。
私は二年間、理論を勉強してから、聴診器を使って人の胸部を聴いたのですが、
健康な人も、病人も、同じような音にきこえ、書物に記されているほど、はっきりしませんでした。
さいわい、今では放棄したから、人殺しをしないですみますが、不幸にも文壇ゴロとなり、殺されるかもしれない。
5.増田渉への書簡
(1934年12月2日付)
1935年6月に『魯迅選集』(岩波文庫 佐藤春夫、増田渉共訳)が翻訳出版されると、福井中学校在学中の藤野先生の長男恒弥が漢文の教師から
「君のお父さんのことが書いてあるから読んでご覧、若し、さうであったら話を聞かして貰ってくれ」
と言われ本を借りてきたので藤野先生は見ることができた。
この作品集の刊行前、増田あての書簡から『某氏集』は全権でやりなさい。
私は別に入れなければならないと思ふものは一つもありません。
併し「藤野先生」だけは訳して入れたい。
と藤野先生に対する特別の思いを吐露していた。
藤野先生の遺族がこの選集を読んで「何かの音信」を寄せてくれることを期待していたのである。
しかし魯迅のひそかな願いは藤野先生の側から名乗りをあげることはなかったから、半ば実現したに止まった。
6.山本初枝あて書簡
(1935年6月27日)
増田一世訳の選集も二冊送って来ました。
大変よく訳されて居ます。
藤野先生は三十年程前の仙台医学専門学校の解剖学教授で本当の名前です。
あの学校は今ではもう大学になって居ますが三四年前に友達にたのんで調べましたが もう学校にはいられません。
まだ生きて居るかどうかも問題です。
若し生きて居られるとしたらもう七十歳位だらうと思います。
7.増田渉あて書簡
(1935年8月1日)
その前に烏丸求女のもの[「魯迅の影や侘し」]も出た事あり友達が其の切抜を送って来たから几下へ送ります。
併し其の中に引用され、長与氏の書いた「棺に這入りたかった」云々などは実に僕の云ふ事の一部分で、其時僕は支那にはよく極よい材料を無駄に使って仕舞ふ事があると云ふ事について話して居た。
その例として「たとへば黒檀や陰沈木(日本の埋木らしいもの)(埋木の横に「仙台にあり」)で棺をこしらへ、上海の大通りの波璃窓の中にも陳列して居り蝋でみがいでつやを出し、実美しく拵へて居る。
僕が通って見たら実にその美事なやりかたに驚かされて這入りたくなって仕舞ふ」と云ふ様な事を話した。
併しその時長与氏は他人と話して居たか、或は外の事を考へて居たか知らんが僕の仕舞の言葉丈取って「くらいくらい」と断定した。若しだしぬけそんな事を言ふなら実は間が抜けているので「険しい、くらい」ばかりの処ではない。
兎角僕と長与氏の会見は相互に不快であった。
8.増田渉あて書簡
(一九三六年二月三日)
「新文学大系」の事は昨年きゝましたが本屋は一から九まで皆な送りましたと云ふが本当でしょうか?
御一報を待つ。
うそだったら又きゝに行く。
第十冊目は未出版して居ません。
(中略)
「ドの事」[「ドストエフスキィの事」]は実は三笠書房から、たのまれて、広告用と云ふのだから書いたので、書房から改造社に送ったのです。
書く前に僕が解る様に直してくれと頼めば何時もよいよいと云ふが原稿を持って行けばそのまゝ出されて仕舞ふ。
こんな事は一度だけでなかった。
もうこれから書かない方がよいと思って居ます。
名人との面会もやめる方がよい。
野口[米次郎]様の文章は僕の云ふた全体をきて居ない、書いた部分も発表の為か、そのまゝ書いて居ない。
長与様の文章はもう一層だ。
僕は日本の作者と支那の作者との意思は当分の内通ずる事は難しいだろうと思ふ。
先ず境遇と生活とは皆な違ひます。
森山[啓]様の文章は読みました。
林[房雄]先生の文章は遂に読まなかった、雑誌部に行ってさがしましたが売切かもうない。
魯迅の著作
魯迅のいくつかの著作にも仙台留学中の見聞がえがかれている。
ただし、文学者らしく、見たまま聞いたままというのではなく、見聞は形象化され、結晶化されている。
その典型的な事例として、作品「藤野先生」のなかで、医学を捨てて文学への転機とされる「幻灯事件」をあげることができる。
9.「吶喊・自序」
(一九二二)
さらに又、翻訳された歴史書によって、日本の維新が大半、西洋医学に端を発しているという事実をも知るようになったのである。
これらの幼稚な知識のお蔭で、のちに私の学籍は、日本のある田舎町の医学専門学校に置かれることになった。
私の夢はゆたかであった。
卒業して国に帰ったら、私の父のように誤られている病人の苦しみを救ってやろう。
戦争のときは軍医を志願しよう。
そしてかたわら、国民の維新への信仰を促進させよう。
そう私は考えていた。
私は、微生物を教える方法がいまどんなに進歩したか、知るべくもないが、ともかくそのころは、幻灯をつかって、微生物の形態を映してみせた。
そこで、講義が一くぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。
時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。
私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。
あるとき、私は突然画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。
一人がまん中にしばられており、そのまわりにおおぜい立っている。
どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。
説明によれば、しばれれているのはロジア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。
この学年がおわらぬうちに、私は、東京へ出てしまった。
あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。
愚弱ナ国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。
病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。
されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。
そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文藝が第一だった。
そこで文藝運動を提唱する気になった。
東京にいる留学生仲間では、法政や、理化や、さらに警察や、工業を学ぶ連中は多かったが、文学や美術を修めるものはいなかった。
それでもどうやら、冷淡な空気の中で、数人の同志を見つけることはできた。
(以下略)
10.「ロシア語訳『阿Q正伝』序および著者自序伝略」
(一九二五)
卒業後は日本留学に派遣された。
併し、東京にある予備学校を卒業した時には、私はすでに医学を学ぶ決心をしていた。
原因の一つは、新しい医学が、日本の維新を助けるうえに、きわめて大きな力であったことを、
確実に知っていたからである。
私は底で仙台の医学専門学校にはいって、二年間学んだ。
この時期は、丁度日露戦争にあたっていたので、私は偶然にも、映画で、一人の中国人がスパイをしたかどで、斬られようとしているところを見た。
このために、私はまた、中国では、やはり、何をおいても、新しい文芸を提唱しなければならないと考えた。
私は学籍をすててふたたび東京へはしり、数名の友人と、いくつかの小さな計画をたてた。
11.「藤野先生」
(一九二六)
この作品は下手な翻訳では読まないほうがよい。
そこでいまでも入手しやすい、翻訳に定評のある文庫本を紹介しよう。
そちらでお読みになることをお薦めする。
12.「学界の三魂」
(一九二六)
だが国情が違うと、国魂も違ってくる。
日本に留学していた頃、ある級友たちが私に中国で一番もうけのある商売は何かと聞いたので、私は「謀反」だと答えたことを覚えている。
すると彼らはひどく驚きいぶかったものだ。
万世一系の国柄では、皇帝が一蹴りで蹴落とせると聞くことは、まるでわれわれが父母は棍棒一ふりで打ち殺せると聞くのと同じである。
13.「魯迅自伝」
(一九三〇)
卒業後はすぐ日本へ留学に派遣された。
東京の予備学校を卒業したとき、私はすでに医学を学ぼうと意を固めていた。
理由の一つは、新しい医学が、日本の維新に助力となったことを、私が確実に知っていたことである。
そこで私は仙台(Sendai)医学専門学校へはいって、二年学んだ。
その時はちょうど日露戦争のさなかであり、私は偶然、幻灯で一人の中国人が
スパイをはたらいていたというので斬られようとしているところを目にした。
このことから、こんどは、中国では何人かの人間の病気をなおしたとて意味がない、やはりもう少し広がりのある運動がなければならないと感じ?、
とりあえず新文芸を提唱した。
学籍をすて、もう一度東京へ行き、何人かの友人とささやかな計画を立てたが、いずれも次々と失敗した。
14.「連環画」弁護
(一九三二)
私自身こんな小さな経験を持っている。
ある日、ある宴会の席上、私は思いつくままにこういった。
映画を使って学生に教えたら、きっと教員の講義よりよいにちがいない、将来はおそらくそうなるだろう。
ところが、この言葉が終わらぬうちに、ドッという哄笑の中に埋没されてしまった」、「だが私自身としては、確かにフィルムを併用した細菌学講義を聞いたことがあるし、全部写真で、ごく簡単な説明しかない植物学の本を見たことがある。
だから私は、生物学だけでなく、歴史や地理でも、こんなふうにやれると信じている」
15.「自伝」
(一九三四)
そこを卒業後、日本留学に派遣された。 また考えを変え、医学を学ぶこととする。 二年学んでから、ふたたび考えを変え文学を志す。 そこで文学書を読み、翻訳したり、いくつかの論文を書いたりして、なんとか雜誌に発表。