魯迅を語る
1.小林茂雄
2.名古屋長蔵
3.杉村宅朗
4.鈴木逸太
5.藤野先生から小林茂雄への返書
6.藤野先生「謹んで周樹人様を憶ふ」
7.河北新報(1936年10月20日付)に掲載された魯迅の訃報
1.小林茂雄
小林は飯野の問い合わせにこたえて次のように回想した。
(飯野太郎「仙台医学専門学校時代の魯迅について」から)
実は私の知って居た魯迅は三十七年から二三年間の事でありその後の消息はさっぱりわからなかったのでした。
後で色々の雜誌等に出る写真によってみるともとの顔は勿論十分残って居りますが学校当時よりは太った様な気がします。
当時はどっちかと云えば蒲柳の質の様に思はれてあまり口数のないおとなしい青年であったと記憶して居ります。
成績は余りよいほうではなかったが中位に居った所を見れば他国人として相当の努力を払って居た事と思はれるのであります。
2.名古屋長蔵
「実はあれ程有名だった支那の文豪魯迅氏が昔の同窓周樹人君であったとは今の今まで知らずにゐたので、いかに医学と文学との目指す方向が違ってゐたからとは云へ自分の迂闊ぶりを恥ぢない訳には行かない。
彼は時の非常時日露戦争の酣なる明治三十七年九月仙台医専へ這入り、当時同学中たった一人の支那留学生だった当時二十歳であったと思ふ。
丈は5尺二三寸どちらかといへば小柄の方だった。
顔は細く蒼白濃い眉毛切れ長の大きな眼高い理知的な鼻よく締った口元房々とした漆黒の髪を中央より分けた一見美男子と思へた。
いつも余り口数をきかず若い他の学生の如く笑ったり戯けたりする様子もなく始終静に何か心に思ひを集めてゐたかの様であった。
彼は何等娯楽のない当時の仙台に一人淋しい毎日を送ってゐたのであらう。
その頃既に日本語は可成上達してゐて何等不自由はなかった様であった。
彼は煙草が非常に嗜きらしく両切りのリリーを暇さえあればスパすぱと喫ってゐた。
「いかがですか」とよくポケットから出してくれたものでした。
酒も相当に飲めたらしく学生の宴会等には可成飲んだ様だったがちっとも酔ふた風はなかったと思ふ。
独逸語は入学前に習って来たと見へて之も可成やれた為でもあらうか講義をノートする事は困難ではあったらうが一般の学生と同じ様にやってゐた。
当時敷波重次郎教授(解剖・組織)藤野厳九郎教授(解剖学)は異国のたった一人の留学生に対して特に同情を持たれてゐたせいであらうか時折教授室に同君を呼んでは解るか解らぬかと訊いておられた様だった。
彼は日清戦争に支那が敗れた事をちっとも苦にしてゐなかった様子で寧ろ日本を好きだといってゐた。
支那が敗れたのでなく満人が敗れたのだと語っていた。
一年の終り頃にはどうも医学を以って終始するのは嫌らしい風がほのかに見へ又彼の口吻にも窺われたし日々のノートをとるのも熱が薄らいで行きブランクを整理しようとする気持ちも段々少なくなるやうに思はれた。
果せる哉彼は一学年の進級試験後仙台へはもう来なくなった。
※1と2の出典は飯野太郎「仙台医学専門学校時代の魯迅について」(「艮陵」39号1937年2月所載)。
3.杉村宅朗
仙台医学専門学校当時の魯迅は実におとなしく、あれほどの大人物になるとは思わなかった。
従って当時日時などはっきりしたことは忘れたが、私が薬学科を卒業してから医学科に入った際一緒になり二年の一学期まで仲良く勉強した。
私の下宿は仙台市伊勢屋横丁、彼の下宿は土樋だったのでたがいに行ったりきたりし、ノートなどをみせ合った。
日本語は実に巧みでノートは全部毛筆で記入、解剖の絵などはなかなかうまかった。
彼は大の甘党で学校脇の牛乳屋でよくコーヒーや菓子などを食べた。
その当時私たち日本の学生は十五円内外の学費であったが彼は三十円送金されていたので学生としては十分なほど小遣いを使っていた。
しかしこの牛乳屋に来る以外は余り外出せず、ほとんど下宿で復習していた。
こうして二年の一学期まで一緒にいたが文科に転向するため東京に行ってしまった。
仲良くはしていたがおとなしい男だったので私も忘れるともなく忘れ、そのまま文通も絶えてしまいその後の消息も全然判らなかった。
ところが中国の文豪魯迅の名がだんだん高くなったので、あの男がと驚いたくらいだ。
実験の時間に顕微鏡のカエルの血球をみてから自分の血をみあやまって蛙の血がまじったのを知らずに「オレ後が蛙の血と同じだ」とびっくりしたときの彼の顔がいまでも懐かしい思い出として浮んでくる。
(河北新報1955年11月25日付)
4.鈴木逸太
東北大学医学部同窓会名簿から、魯迅の同級生にあたる1904年の入学生と留年生合計148人全員について、市町村の戸籍課にご本人と遺族の所在をたずねる事からはじめた。
現在ではこの方法はおそらく門前払いにあうだろうが、当時はぞくぞく返事がもどってきて、魯迅の同級生が3人現存していることがわかった。
仙台在住の薄場実はわかっていたが、その他に2人、青森県の鈴木逸太と福島県の半谷広男が健在だということから、調べる会の士気はいやが上に盛り上がったのである。
鈴木逸太は青森県野辺地町に健在だった。
以下に回想記を掲載する。
「ちょっとこうやって見たところ、(魯迅は)ふだんはおとなしくて無口ですけれど、やっぱり、なんかこう感情に鋭いところがあるようにみえましたね。」
「解剖なんてのは熱心に大将やってましたからね。とにかく興味をもってやっているし、それからあの解剖図なんかとってもその上手に描いたんですがね、彼は。わたしら以上でしたな。
あの描くのは上手で、ええ、なんだか却って、あの、藤野先生にしかられたっていうようなこと言ってました。
描いてね、あんまりお前は上手に描きすぎたんだ。
これは本当はこうじゃないなんてことを言われたってことも本人話したこと聞いてますからね」
「ええ、これはあの、今のノート事件で私が行ったときに、僕は何もそう言うことはないんだ。
今、小にしては中国のため、またひとつは、やはり医学を中国へ広めたいという考えから、ぼくはやっているんだ。そういうふうなことを話しましたな」
「(試験問題漏洩事件について)何でも半分くらいの成績でおったんですからね、わけがわからんのに半分なんて成績があるわけない。きっと藤野先生あたりが何々をやったと、そういうやつも、言ったやつもいるんですね。
だから、そんな馬鹿な事あるかと、ともかく、そんな事あれば、それはたいしたかわいそうだから、ともかく、そんなもの、わたしはみなにそういって藤野先生にも話したけれども、そいう事件は全然ないぞと言って、みなを集めて話したことがある。それは覚えています。」
「(ノート事件は幹事がしたという「藤野先生」の記述について)だけど幹事ってー。
あのあたりの幹事ってのはわらしがやったんだがな?。
だからそういうわたしがそんなことをやるわけがないんで、これはおかしいね」
「(作品「藤野先生」の試験問題漏洩事件について)これは同級の生徒でないな。
もっとその、一年上の連中じゃないかな、こりゃ。
何か上の連中がそんなことをやったということは聞いたことはありますから。
上ですな、これはきっと。
ここに書いてある学生会ってのはありませんな。同級会ってのはあったけれどもね。」
「(日本語は)ええ、割合によくできました。それでわたしらとは時々よく話をして」
「煙草は吸っていました。リリイです。」
「はじめは佐藤屋に十ヵ月くらい、一年もいなかった。弁当屋ですな。監獄へ入れる。
それであの、誰がそういったんですかね、監獄へ納めるんだから、そういう所に
いないほうがいいんだと言ったそうで。
それでやつも平気でいたんだが再三言われるもんで、やっぱり気持ち悪くなって移ったと。
それでも、やあうつらなければよかったと、わたしにこぼしておったですよ。
やっぱり弁当屋ですから、始終いろんな料理がでるんでしょ。
ところがその松本【覚え違い、正確には宮川】行ったら、もう、うまくないものばかり食わされたとこぼしておったですよ」
「藤野って人はずいぶん頑固な先生だったね。几帳面ですね。ええ顔つきもあんまりよくなかったですからね。
教室にはいって、さてこの始めこうやって挨拶して、私は藤野厳九郎でありますというと、皆クスクスと笑ったものです。
けど、あの人は原語【ドイツ語】は使わない人だったですね。だから話はよくわかったですね。」
「敷波先生はもうはじめから原語でペラペラやったもんだから。みんなはアワを食ったですよ。
ええ、ま(藤野先生は)徹底的に真面目だったな、あの人は。なかなか笑わなかったですから。
藤野先生の笑ったの見たことないんですよ、みんな。
ただ、あの藤野先生の部屋にはいつでも行きました。」
「(「幻灯事件」について)それはどうだったかよくおぼえていません。
あの幻灯器はなかなか、当時四〇〇円って言っていましたかね。
あれ中川アイザックって、いや、愛咲っていうんですがね。あれが無断で買ったらしいんです。
学校で何かだいぶ問題になった。何おれのほうの俸給からさい差し引いとけっていうわけで。
そいつはもう有名になったわけで。
まあ、ああいう幻灯なんていうのは当時はたいした貴重なものだったんですからね。
はい、授業の後でした。時間があって。余った場合にやったですね。」
「ええ、もう戦時で、歓送迎会、といっても、たいてい送るんでしょうね、駅まで。
坂下君というのがやっぱり同級生にいましてね。
これは出征したものですから、これは一番年長だったんですね。
二十何歳だったかな、あれは。ぼくらの間では、おとうさん、おとうさんと言っておったが、もう三十近い人がいてね。それを送るのにみなずいぶん盛んにやったもんです。」
「(送別会)ただ帰るというんでわたしらもどういうつもりでなんで帰るんだかってこともよくわからんけど、ただ本人は都合によって長くいられなくなったというだけで何も言わなかったんですけど。
後で聞けばなにかその幻灯事件っていうのがありましたからね。
それでやっぱり彼は気持ちがかわったというようなこと、後で聞いたんです。」
5.藤野先生から小林茂雄への返書
小林茂雄あて返信(一九三七年二月二五日)
拝復 春暖相催候處、貴下愈々御多祥御座被為在奉賀候、陳者此程は故之周樹人さんに干【関】し御懇篤なる芳墨を恵まれ難有拝誦、在仙一五ヶ年之間小林之御姓を二、三人発見せぬ事無之程饒山ありますが、茂雄様とはここと直ぐさま三十余年前之備忘録を見ましたら、時之尤物、宮内賢一郎君と力争サレタ、ハッハー明治三十七年にこれがこれこれがこれ、三十八年にこれがこれこれ、同じく三九年三年生之時あれがこれというすばらしい出来栄之御持主であれば、海外御渡航も学位も各地へ之御捧職も御開業も御意之ままに、発展お盛んな事と愚考、今日之御健在と御業務盛況の段、謹んで奉恐賀候。
周さんが泥坊であらふと学者であらふと将又君子であらふとそんな事には頓着無く、後にも先にも異邦人之留学生は周さん唯獨りでした。
而も鄰邦支那より之留学生と申ところで、生徒同志之付き合い、下宿屋生活之仕方、勉強振り邦語之話方、かき取りかた等、乍不及彼之今日を安楽にして日暮らしさせるため出来るだけ便宜を斗って上げましたが、中途廃学されて遺憾に存じ候。
されども友邦之文人にして世界衆之人を仰がしめ得たる次第は御同様敬服之外御座候、謹んで彼之遠逝を弔い又冥福を祈り居申候、親に孝養、忠君愛国と申念恵【慮】は皇国本来之特産品であるかも不知候へ共、鄰邦儒教之刺戟感化を受けし事、又不尠様に被思候へば如何なる事情あるにせよ彼は道徳的先進国として敬意を表するが大事、親切になし丁寧に導くが彼に対する唯一之武器と思ひ居候為め周さんだけを可愛かった訳ではありません。
明治四十一年以来多勢留学生も見えましたが三十九年から四十年之間は一人も来ませなんだ。
錦地盛岡に医学校ありと聞て人にも尋ねられますから御手数恐入候へ共貴暇御割愛之上一覧を御送り被下候様御願申上候(公立、私立、年限授業料等承知致度候)
時下御自愛被下度年居申候 敬具
二十五日
小林茂雄様
藤野厳九郎
6.藤野先生「謹んで周樹人様を憶ふ」
そのときの談話をまとめたのが「謹んで周樹人様を憶ふ」であり、「文学案内」三月号に掲載された。
次に全文を紹介する。
古いことで記憶がハッキリして居りません。
私が愛知医学専門学校から仙台に転じましたのは確か明治三十四年の暮れでした。
それから二年か三年して支那から初めての留学生として入学されたのが周樹人君でした。
留学生のことですから別に入学試験を受けず、落第生三十人余と新入生百人程の中に只一人まじって講義を聴いてゐました。
周さんは身丈はそんなに高くなく、丸顔でかしこさうな人でした。
この時代も余り健康な血色であったとは思はれませんでした。
私の受持は人体解剖学で教室内ではごくまじめにノートをとって居りましたが、何しろ入学された時から日本語を充分に話たり、聞いて理解することが出来なかつた様子で勉強には余程骨が折れたようでした。
それで私は時間が終はると居残って周さんのノートを見て上げて、青野人が聞き違ひしたり誤つてゐる処を訂正補筆したのでした。
異境の空にそれも東京といふなら沢山の同胞留学生も居たでせうが仙台では、前にも云ひましたやうに周さん只一人でしたから淋しいだらうと思ひましたが別にそんな様子もなく、講義中は一生懸命であつたと思ひます。
其の当時の記録が何か残つて居りますと周さんの成績もよく判かるんでせうが、現在は何もありません。
大して優れた方ではなかつたと記憶します。
その頃私は仙台の空堀町と云ふ処に一家を構へて居りまして私の家へも遊びに来られたこともあつたでせうが思ひ出すようなことはありません。
逝くなつた妻が居れば一寸は知つてゐましたでせうが、一昨年でしたが私の長男達也【恒也が正しい】が福井中学校に居りました頃漢文の受持先生であつた菅といふ人が、
『君のお父さんのことが書いてあるから読んで御覧、若し差腕圧たら話を聞かせて貰ってくれ』
と云つて周さんの書かれた本を借りて帰へり見せてくれたことがありました。
これは何でも佐藤とか言ふ人の訳でした。
其の後、半年程して菅さんが会ひに来られその話も出て周さんが支那に帰へられて立派な文学者になつて居られることを承知しました。
此の菅先生は去年死なれました。
現在姫路師範の先生をしてゐる前田さんもこんな話をし居られたと聞きました。
話は前後しますが、周さんは学校をたしか一年程続けたきりで顔を見せんやうになりました。
今思ひ出しますと何でも医学の勉強が心からの目的で中ツタのでしたでせう。
私の家へ別れの挨拶に来られたのでせうが、その最後の面会が何時であつたか忘れてしまひました。
私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいてくれたさうですが、まことに嬉しいことです。
以上のような次第でその写真を何時どんな姿で差し上げたのか憶えて居りません。
卒業生なら一緒に記念撮影もするんですが周さんとは一度も写したことがありません。
どうして手に入れられたでせうか。
妻がお渡ししておいたのかも知れません。
私もそう言はれるとその頃の自分の姿を見たいように思ひます。
私のことを唯一の恩師と仰いでいてくれたさうですが、私としましては最初に云いましたように、たゞ、ノートを少し見てあげた位のものと思ひますが、私にも不思議です。
周さんの来られた頃は日清戦争の後で相当の年数も経ってゐるにもかゝわらず、悲しいことに、日本人がまだ支那人をチャンチャン坊主と云ひ罵り、悪口を云ふ風のある頃でしたから、同級生の中にもこんな連中がゐて何かと衆参を白眼視し続け除け者にした模様があつたのです。
私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰らひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いといふ風に考へられたのでせう。
このために周さんの小説や、お友達の方に私を恩師として語ってゐてくれたんでしたらそれを読んでおけばよかつたですね。
そして死ぬまで私の消息を知りたがつていたんでしたら音信をすれば、どんなに本人も喜んでくれたでせうに。??
今となつては如何とも出来ません。残念なことでした。
何しろこんな田舎に引込んで世間のこと、特に文学と云ふことに門外漢ですから何も知りません。
それでも先日新聞で周さんの魯迅の死なれたことは新聞で読みました。
今始めて話を聴いて以上のことを憶ひ出したのです。
周さんの御家族はどうしていられませうか。子供さんはおいでゞせうか。
僅かの親切をそれ程までに恩誼として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く弔ふと共に御家族の御健康を祈って已みません。
7.河北新報(1936年10月20日付け)に掲載された魯迅の訃報
魯迅氏
支那随一の文豪
【上海十九日発同盟】
支那現在随一の文豪魯迅氏は持病の心臓に喘息病が悪化し十九日午前五時三十五分 上海施高塔路大陸新邨九号の自宅で逝去した、享年五十六。
魯迅氏は本名周樹人といひ一八八一年浙江省紹興県生れ現代支那左翼文壇の雄にして夙に文学に志し、著書の中でも代表作「阿Q正伝」等は数ヶ国語に翻訳され世界的名著として喧伝されてゐる、氏は東京廣文学院、仙台医学専門学校及び東京ドイツ協会学校に学び、帰国後理化学教師となってゐたが文学者として次第に声名を博するに到った。
次いで北京大学、北京師範大学講師を経て広東中山大学文科主任教授となったが辞して上海に帰って以後漸次その傾向は左翼的となり中国左翼作家連盟に参加し当時は国民政府から非常な抑圧を受けてゐた。